歴史のロマンの一つに生存説があります。
源義経が生き延びてジンギスカンになった伝説や信長生存説、実は生き残ったのが明智光秀で後の南光天海だったなど様々な伝説があります。
今回紹介するのは真田信繁(幸村)で、生存の根拠やその後の痕跡など真偽は不明ですが数々の伝承があります。
真田信繁(幸村)生存説
大坂の陣で豊臣方として活躍した真田信繁(幸村)。
大坂夏の陣では家康を追い詰め「日本一の兵(つわもの)」とまで言われました。
ここからは幸村と呼びますが、今回は数々の幸村の伝説の残る真田丸跡地を訪れました。
真田の抜け道
真田丸跡地には幸村が使った(かもしれない)、伝説の抜け道が今も残っています。
伝説の場所の割に非常に手軽に行けますし、無料で見る事ができます。
戦では敗れなかった真田丸
真田丸は大阪城の南側に築かれた出城です。
上町台地の北端に位置する大阪城は東西と北を淀川などの河川に囲まれた城ですが、南側だけが地続きの為防御に不安があり防衛力強化の為に築かれたのが真田丸です。
秀吉の築いた大阪城は総構えと呼ばれる巨大な城で、徳川時代の4倍とされる面積に様々な施設を内包して造られています。
真田丸も上町台地の高台を利用し、寺などを内包して築かれました。
元々あった地形や建物を利用することで、早期に強固な砦を築くことができたのです。
大坂冬の陣では真田丸で徳川の大群を迎え撃った幸村ですが、激戦の結果真田丸は落とされる事なく和睦をむかえます。
大阪冬の陣を耐え抜いた真田丸ですが、大阪城は内堀と本丸を残して解体されてしまいます。
現在の真田丸の姿
真田丸は丘を利用して築かれましたので大阪の陣で解体され、その後の都市開発を経た現在でも丘は残り痕跡を見る事ができます。
更に周辺には小学校やマンションに真田山の名前が数多く残ります。
真田幸村像のある三光神社
実際の真田丸では東側に位置してたであろう場所に三光神社はあります。
少し高台なので階段を上っていきます。
幸村公のお出迎え
階段を少し上ると幸村公の像があります。
ドラマやゲームの影響で若武者のイメージですが、当時49歳なのでおじさんです。ビジュアルは松方弘樹さん版幸村です。
近年幸村を演じた城田優さんや最近の日向亘さんモデルなら、女性ファンが増えそうです。
周辺には広場があり、兵士が待機していたのかと想像してしまいます
これが「真田の抜け道」
いよいよ本題の真田の抜け道です。
「史跡」となっていますが、本当に真田幸村が作ったものか確定資料はないそうです。
伝説では大阪城内に通じていて、移動や脱出に利用されるはずだったとされます。
ただ証拠は見つかっておらず、真偽不明です。
覗いても奥は見えません。
この先に地下国家があった小説もありますが、現在は行き止まりとされています。
奥まで進むと大坂の陣の時代にタイムスリップ・・しそうな雰囲気だけはあります。
神社なので参拝も忘れずに。
周辺は住宅地です
神社以外の場所にもお寺や小学校に真田丸の碑文などが残ります。
真田丸の城壁だったような痕跡もありますが、住宅地であることを考慮して撮影はしてません。
真田の抜け道への行き方
最寄り駅はJR環状線玉造駅又は大阪メトロ鶴見緑地線玉造駅になります。
どちらの駅からも歩いて数分でたどり着けます。
JRからだと商店街を通りますが、小さいですが趣のある商店街です。
写真を見て気が付きましたがクレープ屋さんがあります。訪れた当時小腹がすいていたので、食べればよかった。
実際に真田丸があったとされる場所は三光神社の西側ですが、学校だった住宅地なので撮影はしてません。
手軽に行ける伝説の場所ですが、周辺は閑静で観光地のような雰囲気はありません。
豊臣時代の大阪城は現在の4倍の広さだったとされ、真田丸の位置から推測すると少なくとも長堀通りや空堀までが大阪城です。
現在も真田山の西側に空堀などの地名が残り、空堀商店街周辺はカフェやお店が多いので散策に向いています。
三光神社から空堀商店街は徒歩で移動可能な距離ではあるのですが、真田山周辺に碑文などがある以外はマンションの住宅街の中をひたすら歩くだけになります。
幸村生存説とは
数多く残る生存説は、その人物の人気の影響で作られた創作の可能性が高いです。
やはり義経ジンギスカン説などはかなり無理がありますし、信長が生存していたとするとその後復帰ししないのはおかしいです。
では幸村生存はどうでしょうか?
幸村生存説の根拠
根拠1 影武者の存在
幸村には数多くの影武者が存在したと言われており、7人とも10人とも言われています。
影武者のエピソードが真田十勇士の元ネタになったとも言われています。
大坂の陣で打ち取られたのは、その影武者の一人であったという説です。
実際に幸村の物とさる首級は多数あったと言われ、本物が含まれていたのか全て偽物だったのか確認がするのは困難だったとされています。
そもそも写真の無い時代ですから。
根拠2 日本各地にあるお墓
日本各地に生き延びた幸村とされるお墓が存在します。
根拠3 わらべ歌
後述しますが、秀頼を連れて脱出したとされる歌が残っています。
幸村生存説をまとめると
最も有名な話が、九州脱出説です。
影武者のおかげで生き延びた幸村は、秀頼をつれて抜け穴から脱出します。
その後島津の船で九州まで渡り、鹿児島までたどり着いたとされます。
鹿児島県南九州市には幸村のお墓があります。
後になぜか京都で流行ったとされるのが
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり鹿護島(鹿児島)へ」
というわらべ歌です。
秀頼生存説も同時に存在するのですが、後年の秀頼は酒飲みであまり評判は良くなかったそうです。
抜け道も現在となっては、誰が何の目的で作ったのかは様々な仮説しかありません。
しかしもし九州にたどり着いたのが事実なら、子孫を残したかもしれませんしその子孫が薩摩藩士になったかもしれません。
秀頼と幸村の子孫が明治維新を戦い、徳川への雪辱を果たした・・と考えると凄くロマンです。